原状回復特約に対する最高裁判決(2005年12月16日)

最高裁判決

判例 平成17年12月16日 第二小法廷判決 平成16年(受)第1573号 敷金返還請求事件

要旨:
賃借建物の通常の使用に伴い生ずる損耗について賃借人が原状回復義務を負う旨の
特約が成立していないとされた事例
内容:
件名   敷金返還請求事件

(最高裁判所 平成16年(受)第1573号 平成17年12月16日 第二小法廷判決 破棄差戻し)
原審   大阪高等裁判所 (平成15年(ネ)第2559号)

主    文
原判決を破棄する。
本件を大阪高等裁判所に差し戻す。

理    由

上告代理人岡本英子ほかの上告受理申立て理由(ただし,排除されたものを除く。)について
1 原審の確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。

(1) 被上告人は,地方住宅供給公社法に基づき設立された法人である。

(2) 第1審判決別紙物件目録記載の物件(以下「本件住宅」という。)が
属する共同住宅旭エルフ団地1棟(以下「本件共同住宅」という。)は,
特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律(以下「法」という。)2条の認定を受けた
供給計画に基づき建設された特定優良賃貸住宅であり,
被上告人がこれを一括して借り上げ,各住宅部分を賃貸している。

(3) 被上告人は,平成9年12月8日,本件共同住宅の入居説明会を開催した。
同説明会においては,参加者に対し,本件共同住宅の各住宅部分についての賃貸借契約書,
補修費用の負担基準等についての説明が記載された「すまいのしおり」と題する書面等が配布され,
約1時間半の時間をかけて,被上告人の担当者から,
特定優良賃貸住宅や賃貸借契約書の条項のうち重要なものについての説明等がされたほか,
退去時の補修費用について,賃貸借契約書の別紙
「大阪府特定優良賃貸住宅and・youシステム住宅修繕費負担区分表(一)」の
「5.退去跡補修費等負担基準」(以下「本件負担区分表」という。)に基づいて負担することになる旨の
説明がされたが,本件負担区分表の個々の項目についての説明はされなかった。
上告人は,自分の代わりに妻の母親を上記説明会に出席させた。
同人は,被上告人の担当者の説明等を最後まで聞き,配布された書類を全部持ち帰り,上告人に交付した。

(4) 上告人は,平成10年2月1日,被上告人との間で,
本件住宅を賃料月額11万7900円で賃借する旨の賃貸借契約を締結し
(以下,この契約を「本件契約」,これに係る契約書を「本件契約書」という。),
その引渡しを受ける一方,同日,被上告人に対し,本件契約における敷金約定に基づき,
敷金35万3700円(以下「本件敷金」という。)を交付した。
なお,上告人は,本件契約を締結した際,
本件負担区分表の内容を理解している旨を記載した書面を提出している。

(5) 本件契約書22条2項は,賃借人が住宅を明け渡すときは,
住宅内外に存する賃借人又は同居者の所有するすべての物件を撤去してこれを原状に復するものとし,
本件負担区分表に基づき補修費用を被上告人の指示により負担しなければならない旨を定めている
(以下,この約定を「本件補修約定」という。)。

(6) 本件負担区分表は,補修の対象物を記載する「項目」欄,
当該対象物についての補修を要する状況等(以下「要補修状況」という。)を記載する
「基準になる状況」欄,補修方法等を記載する「施工方法」欄及び補修費用の負担者を記載する
「負担基準」欄から成る一覧表によって補修費用の負担基準を定めている。
このうち,「襖紙・障子紙」の項目についての要補修状況は
「汚損(手垢の汚れ,タバコの煤けなど生活することによる変色を含む)・汚れ」,
「各種床仕上材」の項目についての要補修状況は「生活することによる変色・汚損・破損と認められるもの」,
「各種壁・天井等仕上材」の項目についての要補修状況は「生活することによる変色・汚損・破損」というものであり,
いずれも退去者が補修費用を負担するものとしている。
また,本件負担区分表には,「破損」とは「こわれていたむこと。また,こわしていためること。」,
「汚損」とは「よごれていること。または,よごして傷つけること。」であるとの説明がされている。

(7) 上告人は,平成13年4月30日,本件契約を解約し,被上告人に対し,
本件住宅を明け渡した。被上告人は,上告人に対し,本件敷金から本件住宅の補修費用として
通常の使用に伴う損耗(以下「通常損耗」という。)についての補修費用を含む
30万2547円を差し引いた残額5万1153円を返還した。
2 本件は,上告人が,被上告人に対し,被上告人に差し入れていた本件敷金のうち
未返還分30万2547円及びこれに対する遅延損害金の支払を求める事案であり,
争点となったのは,
1 本件契約における本件補修約定は,上告人が本件住宅の通常損耗に係る
補修費用を負担する内容のものか,
2 1が肯定される場合,本件補修約定のうち通常損耗に係る補修費用を
上告人が負担することを定める部分は,法3条6号,特定優良賃貸住宅の供給の促進に
関する法律施行規則13条等の趣旨に反して賃借人に不当な負担となる賃貸条件を
定めるものとして公序良俗に反する無効なものか,
3 本件補修約定に基づき上告人が負担すべき本件住宅の補修箇所及び
その補修費用の額の諸点である。
3 原審は,前記事実関係の下において,上記2の1の点については,これを肯定し,
同2の点については,これを否定し,同2の点については,上告人が負担すべきものとして
本件敷金から控除された補修費用に係る補修箇所は本件負担区分表に定める基準に合致し,
その補修費用の額も相当であるとして,上告人の請求を棄却すべきものとした。
以上の原審の判断のうち,同1の点に関する判断の概要は,次のとおりである。

(1) 賃借人が賃貸借契約終了により負担する賃借物件の原状回復義務には,
特約のない限り,通常損耗に係るものは含まれず,その補修費用は,賃貸人が負担すべきであるが,
これと異なる特約を設けることは,契約自由の原則から認められる。

(2) 本件負担区分表は,本件契約書の一部を成すものであり,その内容は明確であること,
本件負担区分表は,上記1(6)記載の補修の対象物について,
通常損耗ということができる損耗に係る補修費用も退去者が負担するものとしていること,
上告人は,本件負担区分表の内容を理解した旨の書面を提出して
本件契約を締結していることなどからすると,本件補修約定は,
本件住宅の通常損耗に係る補修費用の一部について,本件負担区分表に従って
上告人が負担することを定めたものであり,
上告人と被上告人との間には,これを内容とする本件契約が成立している。
4 しかしながら,上記2の1の点に関する原審の上記判断のうち(2)は是認することができない。

その理由は,次のとおりである。

(1) 賃借人は,賃貸借契約が終了した場合には,
賃借物件を原状に回復して賃貸人に返還する義務があるところ,
賃貸借契約は,賃借人による賃借物件の使用とその対価としての賃料の支払を内容とするものであり,
賃借物件の損耗の発生は,賃貸借という契約の本質上当然に予定されているものである。
それゆえ,建物の賃貸借においては,賃借人が社会通念上通常の使用をした場合に
生ずる賃借物件の劣化又は価値の減少を意味する通常損耗に係る投下資本の減価の回収は,
通常,減価償却費や修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませて
その支払を受けることにより行われている。

そうすると,建物の賃借人にその賃貸借において生ずる通常損耗についての
原状回復義務を負わせるのは,賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから,
賃借人に同義務が認められるためには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる
通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか,
仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には,賃貸人が口頭により説明し,
賃借人がその旨を明確に認識し,それを合意の内容としたものと認められるなど,
その旨の特約(以下「通常損耗補修特約」という。)が明確に合意されていることが必要である
と解するのが相当である。

(2) これを本件についてみると,本件契約における原状回復に関する約定を定めているのは
本件契約書22条2項であるが,その内容は上記1(5)に記載のとおりであるというのであり,
同項自体において通常損耗補修特約の内容が具体的に明記されているということはできない。
また,同項において引用されている本件負担区分表についても,その内容は上記1(6)に
記載のとおりであるというのであり,要補修状況を記載した「基準になる状況」欄の文言自体からは,
通常損耗を含む趣旨であることが一義的に明白であるとはいえない。
したがって,本件契約書には,通常損耗補修特約の成立が認められるために
必要なその内容を具体的に明記した条項はないといわざるを得ない。
被上告人は,本件契約を締結する前に,本件共同住宅の入居説明会を行っているが,
その際の原状回復に関する説明内容は上記1(3)に記載のとおりであったというのであるから,
上記説明会においても,通常損耗補修特約の内容を明らかにする説明はなかったといわざるを得ない。
そうすると,上告人は,本件契約を締結するに当たり,通常損耗補修特約を認識し,
これを合意の内容としたものということはできないから,
本件契約において通常損耗補修特約の合意が成立しているということはできないというべきである。

(3) 以上によれば,原審の上記3(2)の判断には,
判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。
論旨は,この趣旨をいうものとして理由があり,原判決は破棄を免れない。
そして,通常損耗に係るものを除く本件補修約定に基づく補修費用の額について更に
審理をさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中川了滋 裁判官 滝井繁男 裁判官 津野 修 裁判官 今井 功 裁判官 古田佑紀)

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<資料>

判例紹介

店舗等を目的とする建物賃貸借契約の際に保証金として支払われた賃料の約22.5ヶ月分に
相当する金員が敷金としての性質を有しないとされた事例
(大阪高裁平成14年4月17日判決、判例タイムズ1104号)

(事案の概要)

賃借人は、昭和59年3月、ショールームの使用目的で、契約期間10年、賃料443万円、
敷金1283万円、保証金9977万円の約定で賃借した。
保証金については、10年間据置のうえ翌年から5年の年賦で返還するが賃貸借契約日から
5年内に解約したときは20パーセントの解約金が控除されるという特約が付いていた。
賃借人は、昭和60年8月、賃料を支払えなかったので、賃貸借契約を解約して建物を明渡し、
敷金の返還を受けた。
しかし、保証金は据置期間未到来のためにそのままになっていたところ、
国税が保証金返還債権を差し押さえ、家主に対して、保証金9977万円の取立を請求した。
家主は、賃借人に対する未払い賃料、期間内解約による違約金、共益費、電気料金、
原状回復費等の清算が済んでないので、保証金返還額は1066万円分しか残っていないと争った。
そこで本件保証金は、敷金のように賃貸契約上の債務を清算すべき性質のものなのかどうかが問題となった。

(判決要旨)

「本件保証金が差し入れられたのは、本件建物の建築資金が必要な時期であって、
本件保証金は多額であるほか無利息で返還する約定があることからすれば、
銀行からの借入金に比して金利分の節約ができることから賃貸人にとって有利であることが明らかであるから、
通常であればこれを建設資金などに充当すると考えられるし、
賃貸人がこの保証金を他に使ったことを客観的に説明しない以上、
本件保証金は本件建物の建設資金に充当することを主目的として差し入れられたものと推認すべきである。

本件保証金の敷金としての担保機能の有無について検討する。
本件契約では、敷金と保証金を別個に規定し、敷金については、
賃借物件明け渡し後債務完済を確認したときに返還する旨規定しているのに、
本件保証金については本件据置規定が存在するだけで、
賃貸借終了時の返還義務の有無については何ら触れていないので、
敷金と同様の担保的機能を有し賃借物件の明け渡し時に契約上の債務と清算した上で
賃借人に返還すべきものであるとはいえない。」

(説明)

保証金の性質については、建設協力金、敷金、即時解約金、権利金のいずれか、
又はこれらを併せ持ったものなど、さまざまであり、契約文言、金額、差し入れの趣旨などから、
賃貸借当事者間の意思を解釈して結論される。本件では、金額が多額あること、
返還時期が契約終了と無関係であること、使途が建築資金であること等から、敷金ではないとされた。